橋の下のダンボールの家
2021-06-15


禺画像]
梅雨どきにしては雨の日が少ない。室見川も浅い流れが続いている。
 だが、この川はひとたび大雨が降ると、とたんに水かさが増して、川沿いの遊歩道を軽々とのみ込んでしまう。
 あのときもそうだった。写真の橋の下で悲劇があってから、10年近くになるだろうか。
 当時、「失われた20年」といわれた長期不況のあおりで、博多駅構内の片隅や地下街の階段の踊り場などにホームレスの人がいた。コンクリートの床にダンボールや新聞紙を広げている場所が、帰る家のない彼らの現住所だった。
 この室見川の橋の下にも、そういう男性がいた。雨に濡れる心配はないし、歩いてすぐのところには公衆トイレと野外調理場が完備されて、いつでも水道が使える環境が好まれたのだろう。
 その人は40代か、50歳ぐらい。遊歩道から堤防の土手を子どもの背丈ほど登った橋台と橋桁(はしげた)の間の狭い空間を住まいにしていた。そこならウォーキングやジョギングをしている人から覗かれることもなく、自分だけの空間を確保できる。周囲には目に見えないバリアが張りめぐらされているようで、だれも近づく人はいなかった。
 異変の始まりは、ホームレスの男性がひとりから2人になり、3人になって、そのあたりがだんだん活気づいてきたころからだった。夕方になると男たちの笑い声が聞こえ、ビール缶や焼酎の1升ビンも目につくようになった。
 それからが早かった。お前も来いよと知り合いに声でもかけたのだろうか。アッという間に3人が4人になり、最後は6、7人の集団に膨れ上がった。
 そして、ついに遊歩道の脇に自分たちの家をつくり始めたのだ。
 ぼくが見たときには、もう6割方、完成していた。ブルーシートの床の上に、支柱となる角材が四隅から等間隔に立てられ、強風がきても倒れないように筋交いも組まれていた。だれか住居の設計図でも書いたのだろうか。
 4つの壁面はすべて分厚いダンボールが釘で留められ、ちゃんと出入り口のドアも、窓のスペースも確保してあった。ダンボールの板がないのは天井だけで、そこはわざわざ手を加えなくても、頑丈な橋の床板が屋根の代わり、という寸法である。床の広さはゆうに12、3畳ほどもあったろうか。照明は、街路灯の光が頼りのようだった。
 屋外には調理場のスペースもあって、七輪、炭、卓上コンロ、大小の鍋、フライパン、やかん、まな板、包丁といった調理用具から、茶わん、皿なども置かれていた。たぶん、一人ひとりが持ち寄ったのであろう。晴れた日にはくたびれた布団や毛布なども干されて、その一画は集団生活の匂いが日増しに充満していた。
 室見川は二級河川で、国土交通省の管轄下にある。もちろん、遊歩道に建造物を建てるのは違法だ。だが、ダンボールの家はお構いなしに造られていった。彼らにとって、この長方形の建屋は安心して過ごせる家でもあり、また世間の目から身を守ってくれる城でもあったろう。
 夕方、室見川の川べりを散歩していると、毎晩のようにそこだけにぎやかな宴会場になっていた。煮炊きの煙が上がり、皆さん、赤い顔をして、ワイワイやっていらっしゃる。酒の肴に、活きのいい川魚でも食べたくなったのだろうか、目の前の流れに釣り糸を下げている人もいた。
 すぐ横を人が歩こうが、走ろうが、まるで眼中にないようだった。その背中は、何をして食べているのか、家族はいるのか、出身はどこなのか、そんなことはお前たちの知ったことではないと言っているようにも見えた。
 ここに至るまでには、それぞれ人に言いたくない事情もあるだろう。そのことを口には出さなくても、ひとつ屋根の下で寝起きを共にしている彼らは、どこかで響き合うものを感じていたのかもしれない。傍から見た感じでは、どなたも橋の下の共同生活をそれなりに受け入れているようだった。
 この異様な光景がぼくの目にもすっかり馴染みになったころ、長い梅雨に入った。そして、ある晩、雷がひっきりなしに落ちる音と共に、大粒の雨が凄まじい勢いで落ちてきた。

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