「分身の術」を使うぞ
2023-01-22


禺画像]
午前中に頃合いを見計らって、選挙支援の依頼者に取材の電話を入れた。質問項目は事前にメールで渡してある。取材予告の時間も了解をとっている。ところが、相手さんの事情で今日の取材は延期になった。
 だからといって、どうということはない。いまのぼくは、それならそれでいいさ、と逆に心がはずんでいる。じゃあ、あれにするかなというプランがある。
 昨夜寝る前に、ふとあるアイデアが浮かんだ。さっそく名刺大の白紙のカードを3枚取り出して、それぞれに筆ペンで3つの名前を書いた。
 ひとつは「△△△△」。これはぼくの本名である。
 2枚目は、このブログの筆者名の「風のひょう吉」。
 そして、もうひとつ。3枚目にはまだ未デビューのペンネームの「藤村遼」と書いた。(島崎藤村と司馬遼太郎のパクリ。ほかに思いつかないから、これでいこうかなぁ、と考えている)
 つまり、親からもらった名前のほかに、自分で2つの新しい名前を付けたわけだ。これで名前の違う3人のぼくがいる、ということになった。すなわち、「分身の術」である。
 これからは毎日の時間の過ごし方の場面に応じて、この3人がそれぞれの役割を担当することにしよう、そう決めた。
 いつものぼくは本名の△△△△。ブログを書いているときは「風のひょう吉」になりきるのだ。ちょっと格好をつけて、小説や随筆を書く作家の気分になりたいときは、「ぼくの名前は藤村遼です」。
 想像するだけでもおもしろくなってきた。だらだらとした日々にアクセントとメリハリがつきそうなところも気に入っている。
 どなたもそうだろうが、自分のなかにはいろんな人間が棲(す)んでいる。これがぼくだとおもっている自分がいる。他人の目に映るぼくという人間がいる。そして、自分も他人も気がついていない、もうひとりの自分もどこかに潜んでいるような気もする。
 自分とはなんと不思議な生き物だろう。「名は体を表す」というが、そんな言葉が当てはまらない例は、新聞の社会面を開いてみればいっぱい出てくる。
 視点を変えて、一畳一夢の小部屋から世の中をみていると、「分身の術」は新しい生き方になろうとしているようにも感じる。
 たとえば、コロナ禍の影響で、インタネットを利用した在宅ワークが定着しはじめた。政府も一部の企業も、社員たちに副業や異業種への出向を奨励するようになってきた。
 これって、まさに「分身の術」の応用ではないか。そして、ここがいちばん大事なところだが、分身した自分こそ、本当の自分だったと気づくことだってあるのではあるまいか。
 ま、これ以上、書くのは止めておこう。
 さて、今日の「風のひょう吉」の仕事はこれで終わり。さぁ、これからどの名前の人間になろうかな。

■貸倉庫のダンボール箱を開けたら、こんなペーパーの束が出てきた。マス目のない、ぼくの名前と年月日が入ったオリジナルの原稿用紙。
 かれこれ30年も前に、知り合いのデザイナーの先輩から、「あなたの原稿用紙をつくったから、好きなようにどんどん書いてよ」と言われてもらったもの。お礼を言っただけで、ほとんど使わないまま、ここまで時間が経ってしまった。
 ここにきて、ありがたい、使い切ってやろうと、おもっている。

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット