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昨日の昼過ぎ、術後はじめてのCT検査を受けた。そのあとで担当の外科医から検査結果の説明があり、最後は化学療法(抗がん剤の点滴)が待っていた。昼めし抜きで、およそ3時間かかった。
CT検査後の待ち時間が長くて、こんなに待たされるのはいいことなのか、それとも悪い知らせの前ぶれなのか。持ってきた文庫本「マンスフィールド短編集」の文章を目で追いながら、頭のなかでは別のことを考えていた。
「お待たせしました。血液検査も、CTの方も病変はありませんね」
「よかった、ほっとしました。問題なしですね」
「ええ。がんはコントロールできていますね。このあとも化学療法を続けましょうね」
話したのはたったの3分ていど。それでも医者はうまいことを言うなぁとおもった。「コントロールできている」なんて言いまわしは、とても思い浮かばない。
待てよ。ということは、まだオレのからだのどこかに、がん細胞が息を殺して、しぶとく生きているかもしれないということか。
いまのところは抗がん剤の効果でおとなしくしているだけで、抗がん剤を止めたらいつ再発するかわかりません、まだまだ出口は見えません。そう遠まわしに言われたのだ。「コントロールできている」とはそういう意味なんだ。
だが、「もう大丈夫ですよ、心配はいりません。今日で治療は終わりです」と言われるよりもこちらの方が断然、医学的である。よし、この調子でがんばって、徹底的にがん細胞をひとつ残らずやっつけてしまおう。
病院を出たところで、さっそく仕事中のカミさんに、「検査は問題なし、でした」のLINEを入れた。こんなメールが送れて、またほっとした。
病院では「がん」という言葉はうかつに口に出せない。
化学療法室で椅子に座って、抗がん剤の点滴を受けている最中だった。6床あるベッドに患者さんはだれもいないとおもって、すっかり顔なじみになった40歳ぐらいの看護師さんに余計なことをしゃべってしまった。
「がんの人は多いですね。聞いた話だけど、知り合いのふたりのお医者さんががんでした。ひとりはぼくと同じすい臓がんで、ステージ4だそうです」
その瞬間、彼女は後ろを振り返って、視線を入口近くのベッドに飛ばした。
(あーっ、やってしまった。)
カーテンの陰に隠れて、姿こそ見えないが、そこには点滴中の患者さんがいたのだ。看護師さんがさっと振り向いたのは、そのことをぼくに教えるサインだった。
きっとがんにかかっている人に違いない。同じすい臓がんの人かもしれない。もしかしたら、その人もステージ4かもしれない。
まずい。すぐに話を付け足した。
「でも、ひところよりも回復して、元気を取り戻してきたそうです。いまは抗がん剤もいい薬があるんですね」
点滴が終わって、部屋を出るときに、そのベッドの奥をちらりと見た。50歳ぐらいの男性がしずかに目を閉じていた。
(聞こえただろうか。でも、大きな声で話したわけではないし、回復とか、元気になったとか、そんな話をしたから、絶望的になることはないと思うけど。余計なことを言ってすみませんでした。お大事に。)
自分ががんになって、人を見る目が変わった。あの人も、この人も、自分では気がついていないだけで、がんかもしれないなとおもうようになった。
そういう人だらけなのだ。いつ、だれがかかってもおかしくない。再発も、初発も変わりはない。本当にそうおもう。
(脅しではありません。でも、くれぐれもご用心ください。)
■室見川を渡って、西区にある地元のJAが経営している農産物市場の「じょうもんさん」に行った。10時の開店と同時に、店内は近在の農家から出品された安くて新鮮な野菜を買い求める客でいっぱいになる。
正午ごろだったので、客はまばら、野菜もまばら。果物、弁当、パン、米、魚、肉、漬物、豆腐、味噌、醤油なども販売している。値札には生産者の名前がついていて、その名前を見て買うことも多い。
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