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気が重いけど、やっぱり、いましかないから書いておく。
先日の夜8時。食事をしながらビールを飲んでいる最中に、携帯が鳴った。
Mさんの奥さんからだった。いくつかの経験から、本人の代わりの電話には、もしかしたら……と、つい身構えてしまう。気配を察したのか、カミさんも息をひそめた。
「Mが先月の26日に亡くなりました」
おそれていた最悪の言葉がはげしく耳を打った。
「びっくりしたやろ。わたしもこんなことになるとはおもわんかった」
夕食中にちょっとのあいだ席を外して戻ったとき、Mさんの大柄なからだはテーブルの下に倒れていたという。救急車も役に立たなかった。誤嚥性肺炎だった。
咽頭ガンで26時間もの手術に耐えてから約7年。再発はしなかったが、以前のように口は開かず、喉の通り道もせまくなって、やわらかいものしか食べれなくなっていた。好物のうどんをふわふわになるまで煮込んで、それを短く切るなどして、奥さんも、本人も食事には重々、用心していた。
なのに、あっけなく、ひとりで旅立ってしまった。
ことしの正月早々には小学校のときからの仲のいい友を失くしたばかりである。こころの容量を測る器があるとしたら、ぼくの小さな容器はガシャーンとつぶれて、いびつな形でへこんだままだ。
そこに立て続けの衝撃である。こころもからだも頼りなく宙に浮いて、自分の足の踏みどころがどこへ行ってしまったのか、見失ったような気持ちになった。
年をとるとはこういうことだ。Mさんにも、ぼくよりひと足早く、そのときが来たのだ。わかっている。わかっているけど、この現実を受け入れるにはもうしばらく時間がかかる。
この街で知り合った人のなかで、いちばん密度の濃い時間を共にしてきたのがMさんである。サラリーマンの出世街道からは外されていたけれど、社内の優秀な強者(つわもの)たちの人望を集めていた。彼らは「俺はMの言うことしかきかないんだ」、「ぼくはM組ですから」などと得意顔で話していた。
世のなかには、自分の持ち場になった先々で、どこに問題点があるのか、たちどころにつかむ人がいる。打つべき手もちゃんと読めている。そして、まず自分から行動に移す。ぼくが出会った人のなかにも、何人かそういう人がいた。Mさんもそうだった。
親しくお付き合いしているうちに、なぜ、そんなことができるのか、おぼろげながらわかったことがある。なにもしていないようにみえても、日々、自分を琢(みが)き続けている人たちである。尊敬する田原髏謳カの書にも、「自琢」の文字があったことを思い出す。
陽が落ちるころ、週に1、2回のペースで、Mさんはぼくの事務所にふらりとやってくる。酒はめっぽう強くて、好きな芋焼酎を手酌で遅くなるまで飲んで、飽きもせずに語り合った。
話を聞くがたのしかった。くだらない話をきちんと聞いてもらえて、助言をしてくれるのがうれしかった。こんなぼくにも敬意をはらってくれて、仕事の上でもどれだけ助けてもらったことか。
あるとき、彼の奥さんから、こんなことを言われたことがある。
「Mはいい友だちは何人もいるけど、Mがいちばん好きな人は、△△さんだからね」
ぼくの小さなこころのなかの大切な勲章である。
死んだ人はもう帰ってこない。こうして書かなければ、Mさんがいたことも、教えてもらったことも、ふたりで取り組んだ夢も、苦労話や笑い話も、彼の死とともにぜんぶ消えてなくなってしまう。
それでいいのか、と自分に問う。
「代わりに伝える役目」がまた増えた。
書くことで、ほんの少しずつでも恩返しできればとおもう。
■天気のいい日は、わが家のベランダに置いてある鉢の花に、朝早くからかわいいミツバチがやってくる。同じミツバチだろうか、細い後ろ足に黄色い花粉のだんごをつけたまま、朝も、昼間も、何回も飛んでくる。
また来たか、ちいさなからだで、よく働くなぁ、元気だなぁとほめてあげたくなる。
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