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真夏日のなか、カミさんとふたりで延岡の市民霊園まで墓参りに行ってきた。高速道路をのんびり走って、自宅からの往復の走行距離は579.5km。本州方向に走ったら、神戸市内まで行ったことになる。
延岡市の中心を流れる五ヶ瀬川の河口から30kmほど遡った谷あいの小さな町が、ぼくの生まれたところである。小学校に上がる前の6歳までしか居なかったから、故郷の実感はないが、父と一緒に魚釣りをした星山ダムや営林署の林道はいまでもよく思い出す。
山のなかの奥深くまで伸びていた林道には、小型のディーゼル機関車が走っていた。伐(き)り出したでっかい丸太を運び出すトロッコ鉄道のようなもので、それらの木材の集積地はぼくたちが住んでいた鉄道官舎のすぐ隣にあった。そこは出入り自由の遊び場になっていて、ピラミッドのように積み上げられた丸太の山がいくつも並んでいた。
オモチャもろくに持っていない子どもたちが、こんな遊び場所を放っておくわけがない。いちばん高い三角形のてっぺんまで登るのがおもしろくて、どの子のズボンも膝のところに何度も補修したつきはぎがあった。大人の目には、お山の大将の座を争っている子猿たちのように見えていたかもしれない。
こうして書いていると思い出は際限なく浮かんできて、ついつい昔話の方へ引きずられそうになる。
あのころの延岡は、周辺の田舎で暮らしている人たちをわくわくさせてくれる花の都だった。
父は旧制の延岡中学の卒業生で、航空飛行兵で終戦を迎えた。先の大戦でソ連軍の侵攻に遭遇し、満州から引き揚げてきた母はこの街でも看護婦の仕事を続けていた。ここは両親の青春の地でもある。
墓所の伸びた草を引き抜いて、墓石に水をたっぷりかけて、タワシでこすって、仕上げにまた水をかけて、汚れをきれいに洗い流す。黄色、ピンク、うす紫、白の造花を飾って、線香を上げた。
夏が近い墓地にはやぶ蚊がつきものである。じっとしていたら、たちまち顔を刺された。同時攻撃を受けて、手の甲も刺された。はるばる訪ねて来たのに、暑くて、猛烈にかゆくて、とても長くはいられない。
こんなに墓が遠くて、近くにいた親戚縁者もほとんどいなくなって、だれも墓参りに来ないのだから、この場を立ち去るときに、ふと墓じまいしてもいいかなぁ、とおもった。
帰り道、東九州道の蒲江波当津インターで降りて、なつかしい海に会いに行った。
カミさんとふたりで、だれもいない静かな浜辺を歩く。
母方の祖父母、叔父、叔母、いとこたち、知り合いが大勢いて、この浜でいろんな貝を採ったりして、あんなににぎやかだったのに、いまこうして並んで同じ海を見ているのは、遠い雪国生まれのカミさんだけになった。
「新潟の墓参りにも行ってないなぁ」
「私だって5年も帰ってないもんね」
「もうそんなになるのか」
なんだかかわいそうになった。
墓が人生を決めるわけではないけれど、墓のことでふりまわされるのも人生のひとコマなのだろう。
■写真は、大分県の最南端・波当津の浜辺。右手の沖合は豊後水道で、リアス式の海岸が続いている。
■花壇に放置されていた花の苗のポットは、前回のブログの直後、すぐ近くの草葉のなかに捨てられていた。気分すっきりとはいかないけれど、とりあえず決着した。
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